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  私は福岡県の筑後市一条というところで生まれました。私の名前の呼び方は「光明(みつあき)」ですが、子供のころからよく「一条の光明(いちじょうのこうみょう)」とよく呼ばれていました。ふつうあだ名でよばれるとあまり良い気がしないといわれますが、私はこの呼ばれ方を不思議と心地良く感じていました。                                    私は五歳の時、生死をさまよう病気をしました。私の家は植物園をしており、すもも、びわ、スイカなどの生の果物が食べ放題ができ、それらを食べ過ぎて「重度の赤痢」にかかってしまいました。私は食事ができなくり、数日間注射ばかり打たれて体は衰弱した状態になり、意識もだんだん薄れてきました。ある日、医者が私の両親に隣の部屋で「残念ですがもう助からないかもしれません」と言っているのが聞こえてきました。私はその瞬間「死んでなるもんか」思いました。すると全身を「太陽の光明」が走り、私の体はみるみるうちに元気になり、その日のうちに立ちあがることができるようになりました。立ちあがって、縁側に立つといままで私が見た太陽の数倍の大きさの「太陽の光明」が私の方に向かって差し込んでいました。その時、私は「太陽の光明」によって救われたのだとわかり、太陽を数分間拝みつづけていました。私はホームページで「気功」ができるようになったのは23年前と書いていますが、正確にいえば「気功治療」を始めたが23年前で「気功」ができるようになったのは五歳の時かもしれません。 私は7歳のとき、父に連れられて奥八女にある邪馬台国(日向神)へ訪れました。そこで父から卑弥呼がこの土地で大蔵一族に太陽の光明の力を借りた気功を教えていた話を聞かされました。大蔵一族とは卑弥呼の護衛をしていて国を守っていた一族です。大蔵省はこの大蔵の名前に由来しています。大蔵一族はその後、氏を「原田」に改めて原田一族となります。 私も原田一族の末裔であることを父から聞き知ることになります。   私は高校は羽犬塚という地名のところにある八女高校へ行きました。この高校からは俳優の田中健さんや黒木瞳さんが卒業されています。田中健さんのお姉さんが私の初恋の人で、黒木瞳さんからは毎年、年賀状をいただいています。八女高校では音楽部に所属していました。発声練習で腹式呼吸を身に付けたことが、今の気功に役立っていると思います。大学は福岡の西新にあるミッション系の西南学院大学の法学部に行きました。三年生からのゼミでは歌手をされている財津和夫さんと同じクラスでした。財津和夫さんとは2年前の10月に同窓会で44年ぶりに再会しました。去年の4月25日に偶然にも私の住んでる枚方市で財津和夫さんのコンサートが行われることになりました。【引き寄せの法則】が働いたのかも知れませんね。もちろん私も観に行きました。西南学院大学でキリスト教について学んだことは今、私が行っている光明気功に大いに役立っています。就職は大阪にある繊維商社のモリリン㈱に入社し定年までこの会社で勤務しました。会社では主に物流の開発の仕事をしていましたので、将来皆に喜ばれるようなものを開発してみたいとは常々思っていました。その頃、日本にバーコードを持ち込んだ流通システム開発センターの浅野恭介さんと知り合いになり、たびたび東京に赴きバーコードの研究をしていました。そのうち浅野さんから才能を認められ、モリリンをやめて流通システム開発センターの研究員にならないかと何度も説得されました。私はモリリンでまだやることがありますと言って断りました。そうしたら浅野さんが資金はどれだけでも出すから原田君がやりたいことがあったら、やらしてあげるよ言ってくれました。その時、私にひらめいたのが「物流バーコードの標準化」でした。そしてバーコードの標準化をまとめた「標準PDラベルガイドライン」を作成しました。今では「物流バーコード」は昔の手書きの送り状に変わって世界中で使用されていますが、これを誰が考えたかは誰も知りません。それは私が物流バーコードの開発資金をすべて流通システム開発センターに出してもらったので、私の特許の登録ができなかったからです。この物流バーコードは通販業界でもあっというまに広まり、通販業界は好景気となり、通販業界と取引が多かった当社も売り上げを急激に増やすことができました。私は私が生み出した「物流バーコード」が世界中に普及していく姿を見てこの上ない幸福感と喜びを覚え、人間の能力の限り無いことに感動を覚えました。                                 この感動がそれから1年後の私と気功との出会いに繋がったと今でも思っています。この感動から一年後、なんとなく奈良の天川村に行きたくなりました。そこで、会社の夏休みを利用して天川村へ一泊二日の家族旅行に車で出かけました。そこで不思議な体験をしたのです。天川神社の能舞台の前に立った時、私が宇宙(神)と繋がっているのを感じたのです。そして自分が宇宙(神)の一部だということがわかったのです。それから3か月後、たまたまつけたテレビで気功師の高塚光さんがスプーン曲げをやっていました。そのテレビを観ているとき私も何だか出来そうな気がしてきたのです。すぐに台所から大きなスプーンを持ってきて、スプーン曲げに挑戦してみたところ、簡単にスプーンが曲がってしまったのです。そこで私も気功ができるのだと確信しました。それから数か月後、テレビで別の気功師が空の雲を消している場面を見ました。私は気功で空の雲も消せるのだと思い実験することにしました。家の近くの駐車場から空の雲を見たら一面「うろこ雲」でした。そこで空に向かって手の平で「気」を送ったところ、「うろこ雲」が「すじ雲」に変わってしまったのです。それで私自信「気功」に対してますます自信を深めました。高塚さんが気功でいろんな病気治療をしていたので、私も病気治療に挑戦しようと思い自分の勤めている会社の人達の病気治療を試みてみました。すると次から次へと病気が治っていったのです。あなたも「カン」や「ヒラメキ」を感じたら、ためらうことなく実行してみてはいかがですか。今、電話かメールしてみたいなと思う人があれば、さっそくその人に電話かメールしてみてください。あなたの人生が良い方に変わるかもしれまぜん。宇宙の意思に繋がる一番簡単な共鳴法は今この瞬間に望みが叶うことをイメージし、叶った後の人生がどんなに楽しくなるかを考えることです。何度も繰り返しイメージしていると本当にその経験が実現する機会に巡り合えます。

私は福岡県の筑後市一条というところで生まれました。私の名前の呼び方は「光明(みつあき)」ですが、子供のころからよく「一条の光明(いちじょうのこうみょう)」とよく呼ばれていました。ふつうあだ名でよばれるとあまり良い気がしないといわれますが、私はこの呼ばれ方を不思議と心地良く感じていました。  私は7歳のとき、父に連れられて奥八女にある邪馬台国(日向神)へ訪れました。そこで父から卑弥呼がこの土地で大蔵一族に太陽の光明の力を借りた気功を教えていた話を聞かされました。大蔵一族とは卑弥呼の護衛をしていて国を守っていた一族です。大蔵省はこの大蔵の名前に由来しています。 卑弥呼は日本国を統一するために一部の大蔵一族を引き連れて大和(奈良)を目指します。大和へ行った大蔵一族は氏を安倍に改名します。その子孫に安倍晴明がいます。奥八女に残された大蔵一族は筑紫の国(現在の福岡県)に都を築きます。                                                                        平安時代の初期に空海は中国での「密教気功」を取得した後、日本へ戻ります。そして「密教気功」の精度を上げるために九州の久留米で一年間、卑弥呼の気功を受け継いだ大蔵一族から気功を学びます。久留米の地名は空海が「久米(奈良)」に似た景色の場所に留まると言ったことに由来しています。                                                                                                原田氏の前身は大蔵氏であるといわれている。天慶2年(939年)大宰府の藤原純友の乱鎮圧のため大蔵春実が源経基・小野好古らとともに出陣。 戦功により菊桐の御紋と日の丸の御印を拝領、征西将軍に任じられ、筑前・豊前・肥前・壱岐・対馬の管領職となる。 城を築き移り住んだ御笠郡の地名をもって原田氏と名乗る。 原田氏が築いた原田城跡は現在筑紫神社となっています。

平安時代に筑紫の国(大宰府)を治めていたのは邪馬台国の卑弥呼から「卑弥呼の気功術」を受け継いだ原田一族(大蔵一族が原田に改名)であって、当然大宰府に左遷された菅原道真と交流を持ったと思われます。そこで菅原道真は原田一族から「卑弥呼伝来の気功術」を学び「気の力」によって京の都に植えていた梅ノ木の花粉を大宰府まで引き寄せたと思われます。 

平安末期、原田種雄(『大蔵姓 成冨家譜』では種成とも)の長子種直は太宰少弐に任官される。そして嘉永年間に源氏と平氏が争い始めると、種成・種直父子は平氏方として活躍。 平清盛の長男である平重盛の養女(清盛の弟・平家盛の娘)を妻とし、事実上の大宰府の長官となり、九州における平氏の基盤を築く。 平家都落ちの際には岩門城の私邸を安徳天皇の仮皇居にする。 壇ノ浦の戦いで平家が滅亡すると、種直も領地を没収され、鎌倉に幽閉の身となる。 扇ヶ谷の土牢にて13年、放免後は怡土庄の地を与えられる。

また『大蔵姓 成冨家譜』によれば、種成の次男次郎種雄は秋月城に住んで秋月氏を名乗り、三男三郎実種は筑後国田尻村に住んで田尻氏を、四男四郎種光は筑後国江上に住んで江上氏を(成富氏はこの江上氏の庶流)、五男五郎光種は筑後国御原郡高橋に移り高橋氏をそれぞれ名乗ったとしている。

鎌倉時代の建長元年(1249年)、原田種継(たねつぐ)、種頼父子が怡土城の遺構を利用し、高祖山に高祖城(高祖山城)を築城。 元寇の際は種照(たねてる)・種房(たねふさ)兄弟が奮戦。

南北朝時代には北朝・室町幕府の足利直義軍に加わり各地に転戦。南朝・懐良親王の征西府の全盛期には南朝の重鎮である菊池氏の縁戚となる。南朝の没落後、一時家運は衰退するも、室町後期には周防の大名で北九州に影響力を持つ大内氏の家臣として原田弘種・興種・隆種(それぞれ大内政弘・義興・義隆より1字を賜う)が少弐氏との戦いで活躍し再興を果たした。大内氏滅亡後は龍造寺氏、毛利氏、島津氏と盟を結び大友氏に対抗した。

戦国時代、最後の当主・原田信種の代には大友氏を駆逐し糸島全土を領土となした。しかし、豊臣秀吉の九州征伐の際に遅参し領地を没収される。その後、加藤清正の配下となり朝鮮へ出兵する。信種の子原田嘉種は唐津藩寺沢氏、後に会津藩に仕え、子孫は重臣の家系となった。幕末期の家老・原田種龍(たねたつ)、朱雀隊に所属した原田種英(たねひで)、白虎隊に所属した原田勝吉(克吉・かつきち)は会津原田氏の末裔である。            戦国時代の末期まで、筑前の有力国衆として勢力を維持した原田氏であったが、もっとも奮発すべきところで、しくじったといえよう。原田信種が快活に秀吉に接していれば、おそらく、その後の原田氏の運命は大きく変わっていただろう。まことに惜しいことであったが、それが原田氏の限界であったというべきか。『師郷記』によると興国5年/康永3年(1344)に、六車郷付近に原田兄弟が国人として働いているとの記載があることから、原田氏は14世紀中ごろから有力者として実在し、原田城を拠点としていた。その後原田氏は摂津守護である細川氏の家臣団に組み込まれていく。 気功師の家系である原田家はこの時期に細川氏の家臣団に気功を伝授していると思います。江戸時代、原田氏は久留米の有馬藩の参謀として活躍します。原田佐助は刀鍛冶の才能を磨き有馬の殿様に名刀を奉納します。私の実家の20畳の広間には有馬の殿様の直筆の書が飾ってありました。残念ながら実家は火災で全焼し、今はそれはありません。       有馬の殿様の子孫の方は中山競馬場が建設されるときに多額の財産を寄付されています。「有馬記念」はそのことに由来しています。                              明治に入り、私の祖父原田万吉は有馬藩から譲り受けた広大な土地を利用して日本一の植物園を建設します。京都植物園が出来るときの植物の大半は原田植物園から移されたと聞いています。原田万吉は商才にも引き出ていて、植物学者牧野富太郎と親しくなり、東京大学の才能がある人達を招き入れて原田植物園で植物図鑑などを作り、国からの支援も受けて多額の財産を築いていきます。昭和に入り「ダリヤの花ブーム」を予測して巨大なダリヤ園を作り日本中にダリヤの花ブームを巻き起こしていきます。この頃、私のいとこ 越村敏昭 が戦火から逃れるために原田植物園で少年時代を送っています。越村敏昭は原田万吉の商才を直に見ているので、後に東急電鉄の社長になれた要因になっていると思います。私の父原田筑紫は生まれ時から祖父原田万吉が残した使い切れないほどの財産があったために私は子供の頃から父が仕事をしている姿を見たことはありませんでした。父は趣味の囲碁、油絵、気功に明けくれます。しかしながら気功については家族には内緒でやっていました。それは私の母は気功が大嫌いだったからです。私は7才の時、父に連れられて卑弥呼の里、邪馬台国(奥八女)へスケツチ旅行に行った時、自分が気功師の家系で大蔵氏(原田氏)の子孫であることを打ち明けられます。