私の先祖 原田氏(大蔵氏)の歴史

私は福岡県の筑後市一条というところで生まれました。私の名前の呼び方は「光明(みつあき)」ですが、子供のころからよく「一条の光明(いちじょうのこうみょう)」とよく呼ばれていました。ふつうあだ名でよばれるとあまり良い気がしないといわれますが、私はこの呼ばれ方を不思議と心地良く感じていました。  私は7歳のとき、父に連れられて奥八女にある邪馬台国(日向神)へ訪れました。そこで父から卑弥呼がこの土地で大蔵一族に太陽の光明の力を借りた気功を教えていた話を聞かされました。大蔵一族とは卑弥呼の護衛をしていて国を守っていた一族です。大蔵省はこの大蔵の名前に由来しています。 卑弥呼は日本国を統一するために一部の大蔵一族を引き連れて大和(奈良)を目指します。大和へ行った大蔵一族は氏を安倍に改名します。その子孫に安倍晴明がいます。奥八女に残された大蔵一族は筑紫の国(現在の福岡県)に都を築きます。                                                                        平安時代の初期に空海は中国での「密教気功」を取得した後、日本へ戻ります。そして「密教気功」の精度を上げるために九州の久留米で一年間、卑弥呼の気功を受け継いだ大蔵一族から気功を学びます。久留米の地名は空海が「久米(奈良)」に似た景色の場所に留まると言ったことに由来しています。                                                                                                原田氏の前身は大蔵氏であるといわれている。天慶2年(939年)大宰府の藤原純友の乱鎮圧のため大蔵春実が源経基・小野好古らとともに出陣。 戦功により菊桐の御紋と日の丸の御印を拝領、征西将軍に任じられ、筑前・豊前・肥前・壱岐・対馬の管領職となる。 城を築き移り住んだ御笠郡の地名をもって原田氏と名乗る。 原田氏が築いた原田城跡は現在筑紫神社となっています。

平安時代に筑紫の国(大宰府)を治めていたのは邪馬台国の卑弥呼から「卑弥呼の気功術」を受け継いだ原田一族(大蔵一族が原田に改名)であって、当然大宰府に左遷された菅原道真と交流を持ったと思われます。そこで菅原道真は原田一族から「卑弥呼伝来の気功術」を学び「気の力」によって京の都に植えていた梅ノ木の花粉を大宰府まで引き寄せたと思われます。 

平安末期、原田種雄(『大蔵姓 成冨家譜』では種成とも)の長子種直は太宰少弐に任官される。そして嘉永年間に源氏と平氏が争い始めると、種成・種直父子は平氏方として活躍。 平清盛の長男である平重盛の養女(清盛の弟・平家盛の娘)を妻とし、事実上の大宰府の長官となり、九州における平氏の基盤を築く。 平家都落ちの際には岩門城の私邸を安徳天皇の仮皇居にする。 壇ノ浦の戦いで平家が滅亡すると、種直も領地を没収され、鎌倉に幽閉の身となる。 扇ヶ谷の土牢にて13年、放免後は怡土庄の地を与えられる。

また『大蔵姓 成冨家譜』によれば、種成の次男次郎種雄は秋月城に住んで秋月氏を名乗り、三男三郎実種は筑後国田尻村に住んで田尻氏を、四男四郎種光は筑後国江上に住んで江上氏を(成富氏はこの江上氏の庶流)、五男五郎光種は筑後国御原郡高橋に移り高橋氏をそれぞれ名乗ったとしている。

鎌倉時代の建長元年(1249年)、原田種継(たねつぐ)、種頼父子が怡土城の遺構を利用し、高祖山に高祖城(高祖山城)を築城。 元寇の際は種照(たねてる)・種房(たねふさ)兄弟が奮戦。

南北朝時代には北朝・室町幕府の足利直義軍に加わり各地に転戦。南朝・懐良親王の征西府の全盛期には南朝の重鎮である菊池氏の縁戚となる。南朝の没落後、一時家運は衰退するも、室町後期には周防の大名で北九州に影響力を持つ大内氏の家臣として原田弘種・興種・隆種(それぞれ大内政弘・義興・義隆より1字を賜う)が少弐氏との戦いで活躍し再興を果たした。大内氏滅亡後は龍造寺氏、毛利氏、島津氏と盟を結び大友氏に対抗した。

戦国時代、最後の当主・原田信種の代には大友氏を駆逐し糸島全土を領土となした。しかし、豊臣秀吉の九州征伐の際に遅参し領地を没収される。その後、加藤清正の配下となり朝鮮へ出兵する。信種の子原田嘉種は唐津藩寺沢氏、後に会津藩に仕え、子孫は重臣の家系となった。幕末期の家老・原田種龍(たねたつ)、朱雀隊に所属した原田種英(たねひで)、白虎隊に所属した原田勝吉(克吉・かつきち)は会津原田氏の末裔である。            戦国時代の末期まで、筑前の有力国衆として勢力を維持した原田氏であったが、もっとも奮発すべきところで、しくじったといえよう。原田信種が快活に秀吉に接していれば、おそらく、その後の原田氏の運命は大きく変わっていただろう。まことに惜しいことであったが、それが原田氏の限界であったというべきか。『師郷記』によると興国5年/康永3年(1344)に、六車郷付近に原田兄弟が国人として働いているとの記載があることから、原田氏は14世紀中ごろから有力者として実在し、原田城を拠点としていた。その後原田氏は摂津守護である細川氏の家臣団に組み込まれていく。 気功師の家系である原田家はこの時期に細川氏の家臣団に気功を伝授していると思います。江戸時代、原田氏は久留米の有馬藩の参謀として活躍します。原田佐助は刀鍛冶の才能を磨き有馬の殿様に名刀を奉納します。私の実家の20畳の広間には有馬の殿様の直筆の書が飾ってありました。残念ながら実家は火災で全焼し、今はそれはありません。       有馬の殿様の子孫の方は中山競馬場が建設されるときに多額の財産を寄付されています。「有馬記念」はそのことに由来しています。                              明治に入り、私の祖父原田万吉は有馬藩から譲り受けた広大な土地を利用して日本一の植物園を建設します。京都植物園が出来るときの植物の大半は原田植物園から移されたと聞いています。原田万吉は商才にも引き出ていて、植物学者牧野富太郎と親しくなり、東京大学の才能がある人達を招き入れて原田植物園で植物図鑑などを作り、国からの支援も受けて多額の財産を築いていきます。昭和に入り「ダリヤの花ブーム」を予測して巨大なダリヤ園を作り日本中にダリヤの花ブームを巻き起こしていきます。この頃、私のいとこ 越村敏昭 が戦火から逃れるために原田植物園で少年時代を送っています。越村敏昭は原田万吉の商才を直に見ているので、後に東急電鉄の社長になれた要因になっていると思います。私の父原田筑紫は生まれ時から祖父原田万吉が残した使い切れないほどの財産があったために私は子供の頃から父が仕事をしている姿を見たことはありませんでした。父は趣味の囲碁、油絵、気功に明けくれます。しかしながら気功については家族には内緒でやっていました。それは私の母は気功が大嫌いだったからです。私は7才の時、父に連れられて卑弥呼の里、邪馬台国(奥八女)へスケツチ旅行に行った時、自分が気功師の家系で大蔵氏(原田氏)の子孫であることを打ち明けられます。

気功師光明's Ownd

私は気功で病気治療や空の雲を消したりスプーン曲げなどができます。平成22年に気功で社会文化功労賞受賞。平成24年読売テレビ出演。私のブログはアメブロで「気功師原田光明」で検索してください。

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  • 気功師光明

    2018.07.19 07:59

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